< バックナンバー一覧へ戻る

わたなべ守人通信Vol.7

渡辺辰男追悼号
年頭のごあいさつ 富山県議会議員 渡辺守人
 皆様、新年あけましておめでとうございます。平成18年度の年頭にあたり、謹んでご挨拶を申し上げます。後援会の皆様におかれましては、お健やかに初春をお迎えのことと存じます。
 さて、昨年は石井県政のもと、行財政改革、世界に羽ばたく「元気とやまの創造」を目指して県政がスタートしました。
 私の地元高岡市においても11月1日に福岡町と合併し、いよいよ新市としてスタートいたしました。
 新高岡市にとりましても平成18年度は大事な1年になると思われ、県政発展と共に高岡市発展の為にこの1年間頑張りたいと今思っております。
 また、私ごとで恐縮ですが、父が昨年10月21日に他界し、四十九日を過ぎたあたりから心にぽっかりと穴が空いたようになり、寂しい思いもありますが父の情熱と信念をしっかりと受け継ぎ、父の分まで全力を尽くして取り組みたいと思います。
 県議に当選し、早2年9ヶ月が過ぎ去り、与えられた一期目も最終年となりました。この間本当に様々なことを勉強させていただきました。今後も一生懸命、県政の諸問題に取り組んでいく所存でございますので、後援会の皆様にはご指導とご鞭撻をよろしくお願い申し上げます。

追伸
 公職選挙法、及び喪中により年賀状を差し控えさせていただきました。ご理解を賜りますようお願い申し上げます。

 昨年の秋、守人議員のご尊父であり、富山県議会議員を7期務められた渡辺辰男氏がご逝去されました。県議時代にアイデアマンとして、数多くの功績を残された辰男氏に追悼の意を込めて、葬儀に送られた弔辞より辰男氏のご活躍、お人柄をご紹介させていただきます。
 残念な想いで亡骸に対面したが悲しさや淋しさの気持と同時に50年以上に渉る君との数々の想出が次々と走馬燈の如く去来してやまなかった。想えば昭和25年春、私が欧米一人旅から帰った直後、砺波運輸の新入社員となっていた君と逢ったのが初対面であった。私は27才、君は26才であった。当時互いに若い者同志としてたちまち意気投合、翌30年私が砺波運輸社長に就任、君は私の秘書の様な立場で協力してもらうことになった。
 併し社長になったとはいえ会社は火の車、銀行融資もまゝならず、いきなり大口債権者との支払延期願の会合を3回も開いた。会場は大野屋の2階の小部屋を借りお茶だけの厳しい雰囲気の中で行った。
 その他組合対策、金融対策、事故防止対策等君と共に取り組み、再建5ヶ年計画を樹て、その実行に全力をあげてきた。
 その後社員全員の協力を得て3年で計画を軌道に乗せることが出来た。
 これらは君との若い力の結集によって成し遂げられた尊い歴史の一頁だったと感謝している。
 会社運営で最大のネックは冬の雪中輸送であった。この解決策である公共除雪の遅れを感じていた私は政治の力の必要性を痛感し昭和34年の県議会議員選挙に東砺波郡から立候補を決意した。
 君は父福一郎氏、伯父松沢六郎氏が県議会議員であるという環境から政治に対する理解は早く、懸命の応援をしてくれた。
 これがその後、私と君との政治を通じての強い絆になろうとは不思議な縁の始まりであった。
 トナミ運輸で私と一緒に数々の経営実践を勉強した後、君は高岡交通の経営に携わる為、退社されたが引き続き監査役、トナミ会々長等深いつながりで今日迄協力してもらってきた事を心から有難く思っている。
 政治面では昭和50年君が県議選に出馬するに当り福一郎さん説得の為、一肌ぬいだこともあった。
 幸い円満に了解を得、初出馬初当選以来7期連続当選、県議会議長を初め要職を得て、活躍をされたことを考えるとこれも想出深い歴史の一頁であった。
 君には昭和42年私が衆議院議員選挙に初出馬した時から今日迄高岡方面の責任者として、或は全選挙区最高幹部として取り仕切ってもらった力添えに改めて御礼を云わねばならない。
 特に先月行なわれた突然の解散選挙には健康を気づかいながらも最後の力をふりしぼっての応援を賜わったことに深く深く心から感謝を申し上げている。
 私的には公嗣君の仲人を初め御子息三代のあついお交際をさせてもらったと思っている。
 想出は尽きぬが君の明るい人柄、親切な世話心は広く皆から信頼され愛されてきた。
 君の人生は幸せだったと思う。
 本当に御苦労様、ゆっくり休み給え。
 茲に永年の交誼、友情に感謝し心から冥福をお祈り申し上げる次第である。
   平成17年10月24日
友人代表 綿貫 民輔 (弔辞より)


 渡辺先生、あなたは、昭和50年4月、地元の皆様方の衆望を担って富山県議会議員に初当選され、以来、7期連続28年の永きにわたり、富山県議会議員としてめざましいご活躍をされました。この間、県議会議長や各種常任委員会委員長をはじめ自由民主党県連副会長等の要職を歴任され、卓抜した識見と果敢な行動力をもって、地元高岡市はもとより富山県の発展に大変ご尽力いただきました。
 北陸新幹線などの高速交通体系の整備、教育・文化・スポーツの振興、産業の活性化や観光の振興など、県政各般にわたりご活躍されるとともに能越自動車道や伏木外港の整備をはじめ、高岡のテクノドームや文化ホール、県高岡総合プールの整備、オタヤ再開発や高岡駅前の再開発など、高岡市や県西部地域の発展に並々ならぬご尽力をいただいたのであります。
 さらに、富山県タクシー協会会長、富山県食品衛生協会会長、日本ボーイスカウト富山県連盟副連盟長など数多くの要職を歴任され、幅広い分野にわたり富山県の発展にめざましいご貢献をいただきました。
 こうした数々の輝かしいご功績により、平成5年には藍綬褒章、平成15年には旭日中綬章の栄に浴されたのであります。
 渡辺先生、あなたは、温厚誠実なお人柄の中に卓越した先見性と富山県や地元高岡市を思う強い信念に溢れた本当に素晴らしい方であり、私の義母が古くから奥様の宏子さんと親交があったご縁もあって、私も心から敬愛の念を抱いておりました。
 私が東京霞ヶ関の自治省、大蔵省などで課長補佐や課長として勤務しておりました若い頃から、先生は県議会や各種常任委員会の代表として上京の折、しばしば立ち寄られ、ご激励などをいただきました。また、私が、昨年、県知事選挙に立候補いたしまして以来、何かと心強いご支援を賜りました。
 時代は大きな転換期を迎えており、県政を取り巻く環境はますます厳しさを増しておりますが、私どもは今、新しい未来を切り拓き、世界に羽ばたく「元気とやま」の創造に向けて全力を尽くし取り組んでいるところであります。渡辺先生には、平成15年以来、富山県参与として高い見地から県政にご助言をいただいてまいりましたが、遅くとも十年後には北陸新幹線が金沢まで開業することが決定され、富山・上海便が昨日就航し、福岡町との合併により新高岡市がこの11月1日に誕生するほか、4年後には高岡市が開町400年を迎えるという重要な節目の時期に、ふるさとを思う強い熱意、信念、温かいお人柄を持った大切な指導者を失いましたことは、誠に残念で、痛惜の念に堪えないところであります。
 しかしながら、幸いにも、渡辺先生、あなたの崇高な志は、ご子息の守人さんが県議会議員として立派に引き継がれ、富山県の発展のために粉骨砕身のご活躍をいただいております。どうかご安心いただきたいと存じます。
 私も、県民の幸せの充実のため、ふるさと富山県の発展のため、微力ながら全身全霊を挙げて努力してまいります。
 渡辺先生、たとえ幽明境を異にされても、あなたが愛されてやまなかったふるさと富山県や地元高岡市の発展をいつまでも見守り続けてください。
 あなたの面影は、とこしえに私たちの胸奥にとどまり、そのご功績は末永く県史に刻まれることと存じます。
 ここに生前の数々のご功績とご労苦に対し富山県民を代表して深く敬意と感謝の誠を捧げ、心からご冥福をお祈り申しあげまして、お別れの言葉といたします。
  平成17年10月24日
富山県知事 石井 隆一 (弔辞より)


  「諸行無常」はこの世の習いとは申せ、ついこの間まで、あれほどお元気にご活躍されていた渡辺先生が忽然として黄泉路へ旅立たれましたことは未だ信じがたく、私たち高岡市民にとりまして、まさに痛恨の極みと申さざるをえません。
 いま、こうしてあらためてご遺影を間近かに拝しますと、いつもにこやかな笑顔で颯爽とご活躍されていたお姿が瞼に浮かんでまいります。本当にあなたは、気さくで自由闊達の精神にあふれ、何事にも誠実かつ強い責任感と先見性のある前向きの態度をもって当たられたのでありました。
 顧みますと、根っからの議会人でありますあなたは、昭和50年4月に富山県議会議員に初当選されて以来、7期28年の長きにわたり、ふるさと高岡はもとより郷土富山県の限りない発展のため粉骨砕身、献身されてまいりました。この間、昭和61年には県議会副議長を務められ、更に平成2年には、県議会議長として県政の重鎮として文字通り東奔西走のご活躍をされたのであります。
 お陰をもちまして、高岡市では、高岡駅前の再開発事業、小矢部川流域下水道事業や能越自動車道、伏木外港の整備などの大型プロジェクトをはじめ、様々な事業が進捗し、県西部地域の中核都市として大きく発展を遂げております。
 このような議会人としてのご活躍の傍ら、あなたは、昭和42年6月から富山県タクシー協会副会長を長く務められ、平成8年にはその手腕を請われて会長にご就任され、県内のタクシー業界の健全発展に大きく貢献されたのであります。また、昭和55年から、高岡食品衛生協会会長、富山県食品衛生協会の副会長として地域の食品衛生思想の普及向上、公衆衛生の増進に寄与されるとともに、平成8年には富山県食品衛生協会会長にご就任され、併せて日本食品協会役員としてもご活躍されたのであります。
 一方、昭和52年から日本ボーイスカウト富山県連盟副連盟長、並びに高岡地区協議会会長として、組織の拡充、指導者の養成などに情熱を注がれ、地域の青少年の健全育成にも並々ならぬご尽力を賜ったのであります。
 このように常に地域の発展を願って日夜励んでこられた先生のご功績は何ものにも代えがたい尊いものであり、平成5年11月には藍綬褒章、平成15年11月には旭日中綬章をもって広く称えられたのであります。
 今、高岡市は、まもなく福岡町との合併により新高岡市として生まれ変わり、また、4年後の高岡開町400年、北陸新幹線や東海北陸自動車道、能越自動車道の整備など、更なる飛躍のときを迎え、輝ける将来に向けてのまちづくりが本格化しようとしております。
 あなたには、これからも、この地のため、更なるご指導、ご活躍をご期待申し上げておりましただけに、突然のご逝去は誠に残念というほかありません。ましてご遺族の悲しみもいかばかりかと拝察申し上げる次第であります。
 どうか、たとえ幽明境を異にされようとも、あなたがこよなく愛してこられたこの高岡の地を、天の高みからいつまでも見守ってください。
 ここにご生前の数々のご功績とご尽力に対し、高岡市民を代表して深く敬意と感謝の誠を捧げますとともに心からご冥福をお祈り申し上げ、お別れの言葉といたします。
  平成17年10月24日
高岡市長 橘 慶一郎 (弔辞より)


第3期目当選 県議会議長就任祝賀会にて
第3期目当選 県議会議長就任祝賀会にて
   
第3期目当選 県議会議長就任祝賀会にて
高岡駅開業100周年
1日駅長
瑞龍寺にて
小渕首相(当時)・綿貫氏とともに
   
県議会議長就任祝賀会にて エジプト訪問
第7期目当選 エジプト訪問
   
旭日中綬章祝賀会にて 守人県議の出陣式にて
旭日中綬章祝賀会にて 守人県議の出陣式にて


 渡辺辰男さんの想い出
参議院議員 河合 常則
 守人さんから『父辰男さんの追悼集』を出すと言われて、筆を執りました。28年間の幾つもの想い出があって、どう綴れば良いか迷っています。
 渡辺さんは初陣で、昭和50年4月の県議選で県で最高点で当選されました。その渡辺さんに若輩の私が県庁で初めて会った時から、奇妙に気が合って、ずっと二人でいろんな相談をし、仕事をしてきたと思っています。早い時期に総務部長のところへ、二人揃って相談に行ったら、早慶で東大を説得にきたかと言われて大笑いした事がありました。
 大野屋、高岡交通の御曹子なだけに食べものに一寸した工夫がしてあって、県庁の食堂の雷鳥にグレープフルーツを頼んだり、昼食には、特別に大粒のラッキョウが付いていたり、ギラつかない、リッチな心遣いをされていました。さすがなものでした。
 議会での質問、発言は、中小企業対策、商工振興、観光施策が多く、薀蓄があり、他の人にはない聴かせるものがありました。“いい人、いい味、いきいき富山”のフレーズもキャンペーンを渡辺さんの発想で知事がいただいたのでなかったかなと思っています。
 私の県議選が無投票で、渡辺さんの選挙の応援に行ったら、先の超願寺が事務所の時、大勢の人の前で、渡辺さんが釣鐘で僕がつき棒なのか、僕が鐘で渡辺さんがつき棒なのかは判らんが、この二つがあって初めてゴーンと音がするので、二人が一緒でないとあかんのですから是非、渡辺さんを当選させてくださいと言ったら、大拍手でタカギセイコーの高木正明さんが「なる程なぁ」と言っておられたのを憶えています。
 渡辺さんは優しそうなタイプなのですが、演説すると意外にトーンが高く、絶叫型になることもあり、マイクを
上手に使って盛り上げる人でした。
 永田先生の3回目の選挙の選対本部長として、平成8年の知事選の総括責任者として、綿貫選対の事務長、本部長、総括責任者として、県全体の大型選挙を沢山取り仕切られました。渡辺さんが県連副会長、私が幹事長の時、自由民主会館が建ち、借入金の返済もその3年後に終わり、人知れない大変な苦労をしていただきました。
 何回かの綿貫先生の選挙で、渡辺さんに島崎吉男さんや島津信一さん、三協アルミの山下常務さんや上杉さんなど沢山の方を紹介して貰い、沢山の方々を知っておられるなぁという印象を持っています。
 海外旅行にも一緒に沢山行きましたが、金沢のつる幸やつば甚、金城楼へ連れて行ってもらい、東茶屋へも同行しました。お酒はこうして飲むものだと教えて貰いました。
 高岡短大、花博、テクノドーム、第二県民会館、地場産センターなど地元のことも仲間と一緒にその実現の為に汗をかかれたものでした。その運動のきめ細かさや、芸のたおやかさには、感心したものでした。
 何せ沢山の事を教えて貰いました。
 いい人でした。うそをつかれた事がありませんでした。
 渡辺さんのお陰で、私はいい県議の生活を送る事ができました。
ありがとうございました。
 これからは、後継者の守人さんをよろしくお願いします。
ごあいさつ
 渡辺県議誕生から3年、守政会発足から2年が経過しました。その間、皆様のご支援により、県議も思う存分力を発揮しております。
 とりわけ橘市長誕生に向けての働きを始め、この間行われた選挙にはどの県議よりも積極的に行動したと思います。
 さて、昨秋我々のかけがえのない辰男先生が急逝されたことは、どの悲しみより大きなものでした。「先生、相談があります」とお伺いするとゆっくり考え、言葉を選んで丁寧にお応えくださる先生でした。守人県議と顔をあわせれば、言葉は無くても感じる思いは同じでした。それは、これからは自分の「モノサシ」「判断基準」が大切になるということでありました。「先生からの直接の言葉は、もうもらえないよ」と。
 苦労が人を育てます。県議も私も、一回り大きく成長させていただけるものと思います。これからも皆様のご意見をお聴きしながら、県政と我がまち「新高岡市」のために渡辺守人県議が働けますよう、そして来年には2期目の大切な選挙が行われます。どうか皆様の手で立派な県議をお育て願います。終わりに皆様にとって燦々と輝く2006年でありますようにご祈念申し上げます。
守政会 会長 増岡 一郎